6. 社会と性
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対話形式になってる
1. 家族と性
近藤四郎.icon
家族は性との関連においていつごろからどのようにして形成されてきたのか ヒト化の段階を経てヒト(ヒト科)が出現したのは、およそ三百数十万年前のこと 化石からヒトと判定するのは、その骨格から持続的二足歩行の能力を証明できるから
長い距離を歩いたり走ったりすることができるようになると、食も性生活も変わってくるものと思われる
当時のサルの食べ物は昆虫食をふくむ雑食であったろう そうするなら今のサル類の食性は、多くは植物食に傾いていて、むしろ特殊化しているともみられる ヒト化の段階で前人類は森林を出てその辺縁部にいたとすると、その食性は果実、堅い種子、根茎、昆虫などを含めて、すでに雑食化していたのではなかろうか そしてその後、ヒトが出現した頃には、長く歩き回る能力に相応して小型の動物を狩りして食べるという肉食がもう一つ付け加えられたものと考えられる たとえば、タンザニアのオルドヴァイ遺跡(オルドワイ遺跡)の最下層(約175万年前)からは、色々な獣骨が発見されているし、キャンプ小屋とも風よけ小屋ともみられるものの礎石も存在していた 当時、猿人の狩りの方法の一つは、小動物を沼地に追い込んで、棍棒あるいは堀り棒で殴り殺したものと思われる
このような推定には、化石や文化遺跡からだけでは不十分であって、現世の狩猟採集民の事例を参考としなければならない 彼らは言うまでもなく家族を構成し、男性は狩猟、女性は野生植物の採集を生業としている このことは、猿人もまたこのような性的分業を行っていたことを推量させる
現世の狩猟採集民を見ると狩猟は不猟に終わることもしばしばであり、食の安定は女性による野生植物の採集に持つことが多いようである
狩りの道具らしい道具すらもっていたとは思われない猿人は、数人の仲間との協力によって動物の狩りに成功した時、さらにその肉を女性、子どもたちに分配したとき、彼らの仲間意識をいよいよ昂揚させることに役立ったことは難くない
このように獣肉を食べ始めることは、獣人以降は高タンパクの肉食を含む雑食化の道をとることになる
これは猿人のからだや脳の発達を促したことは明らかだが、このような食の変化、仲間意識の高まりはどのような性生活の変化をともなうのだろうか
大島清.icon
ヒトの出現の頃の肉食を含む雑食化が、からだの充実、ひいては豊かな生殖を招いたことは明らかだろうが、この食の変化がただちに性ホルモンの分泌にどのように響いたかということを学問的に答えることはむつかしい ただ現存する動物の行動からいえることは、食と性の結びつきは、特に下等な動物で密接
たとえば、オスグモが雌の巣を訪ねていく時、脚で送る信号が雌の気に入れば交尾を許してもらえるが、気に入ってもらえなければ、雌に食べられてしまう
食と性の関係はこれほど直接的でないにしても、高等動物でも植物が媚薬となっていることが多い 量や形による場合もあり、味や匂いによる場合、また色による場合もある
雄が積極的に求愛するときには、雌への贈り物が食物であることが多い 多くの場合、食物は雄から雌に与えられるが、ハーレムのなかの男性のように女性から与えられる例もある 求愛の食事は、やがて家庭での食事にとってかわられ、主導権が男性から女性に移ってゆく
女性が相手に対する愛情を表現するのに、食事ほど効果的な手段はない
一方で続く性関係とともに、家庭内での男性と女性の絆を高めていく
元来、乳房と口は、両者とも食と関係のある器官であるが、一方では性のための重要なつなぎ目となっている 食と性に用いられる表現も共通のものが数多く見られる
しかし、現世のヒトとサルを対象にして言えることは、両者の性は根本的に違うということ ヒトの性はホルモンレベルを越えて発情期を喪失させ、一年中にわたる発情を招いている この性の周年化は、ヒトが直立二足歩行するようになり、その能力によって狩りをして肉食し、大脳化現象を促進させたことに基因していると思われる 近藤四郎.icon
持続的な直立二足歩行は、同時に手の自由な駆使を意味しているが、これら手足の動きは、相当に発達した脳のはたらきがなくてはできない
猿人の脳はサル類とは全く違うものであったということになる
猿人の平均値
現世チンパンジー約390cc
また、猿人と同時代に約810ccにものぼる脳容積をもつものがいたことは注目される
この大きい脳を持っていたものは、アウストラロピテクスではなくホモ・ハビリスであるという説もあるが、いずれにしても300万年前ぐらい前の猿人はサル類より格段と違う、すぐれた脳を持っていたと考えられる したがって、このような脳を持っていた猿人の性生活は、サル類はいうまでもなく前人類とも劃然と異なるものであったと思われる ただここで、猿人が発情期を失って発情を周年化させていたとまでは言い切れない
この問題を説き明かすことは重要
そのためには猿人の出現の頃には生長期間の延長にともなって妊娠期間も長くなっていること、このような生物次元の変化がどのように社会生活に影響するかということを考慮することは大切 妊娠期間が長くなれば、当然母乳による哺育期間も長く、猿人には年子はなかったと考えられる しかし、猿人が直立二足歩行という能力を活用して狩猟採集という生業をもっていても、その集団としての移動は、かなり制約を受けたであろう
身重の妊婦あるいは子どもを抱えている若い母親への、男性あるいは仲間の手助けを必要とするから
これには、男女間に愛情を芽生えさせ、家族を形成するもとになったのではなかろうか
ヒトの大脳化現象ということはよくいわれるが、脳容積の増大よりも、むしろ中身の質的変化に注意すべき
ヒトの出現のころ、大脳皮質の増大が伴ったことは間違いあるまい 大脳皮質のうち、運動野と感覚野を除いた領域である連合野は、高等な精神作用の統合をするところ この連合野の脳幹部に対する重さの比率をとると、A・ポルトマンによれば、現世のチンパンジーでは49.0、現世のヒトでは170.0であって、格段と違っている 小脳の脳幹に対する比率を見ても、チンパンジーでは7.6、ヒトは25.7で際立った違いがある このような質的変化が大脳化現象の内容だが、これはヒトの発情の周年化に大きく関与したのではないか
大島清.icon
大脳皮質には、性的情報が入力する
性行動と関連がある五感の投射領域、とりわけ視覚野、聴覚野の増大は猿人以降、投射域を拡げていったものと思われる 猿人は直立二足歩行の獲得によって対面位となることが多くなると、異性同士がお互いの性差をより明瞭に認識することになる 直立位への変化により、より明らかにみえるようになった乳房-性皮は、雄の性衝動を常に高める 一方、直立により自由に使えるようになった手が、多彩な愛撫を相手の異性に加える
ヒトの出現とともに脱毛化現象もはじまったとすれば、体毛の少なくなった皮膚はまさに「感覚の母」である 現在のヒトにおいては、皮膚感覚の、大脳皮質における投射域も広い
猿人は衣服をまとっていなかったに違いないから、体臭や分泌物が嗅覚や味覚をいよいよ刺激したであろう
このように、五感情報量の増大にともなう大脳皮質の受領域の拡大が、猿人の発情期の周年化を促進したことは十分に想定できる
発情の周年化を、もう一つの面、性交中のオルガズムから考えてみよう このオルガズムが原猿や哺乳類では見られないことは、オルガズムの発生には、かなり発達した新皮質が不可欠であることを示唆している ヒトの直立二足歩行という生活形の獲得により可能となった対面位性交が、クリトリスを刺激しやすくなったこと、ヒトが霊長類のなかで最大のペニスをもっていること、性関心や性衝動を修飾する大脳皮質の五感領域の拡大など、これらが蓄積して、オルガズムを質量ともに増強させていったに違いない しかしこれは、おそらく飼育条件下における環境温度や光に影響されているものであって、ヒトの場合は大脳化現象によってしか説明できないと思う
ところでもう一つ視点を変えて、ヒトの家畜化現象とと性という問題は考えられないだろうか 近藤四郎.icon
これは甚だ漠然とした概念
ヒトの進化をみると、ヒトがお互いによき相手をもとめて性交合を繰り返しているうちに、ヒト自らの形質に家畜のそれと似通ったものが出てきているということ
家畜に共通して見られる形質としては、一般に性的活動の増大、攻撃性の低下、皮下脂肪の増大、育児能力の低下などが挙げられる ヒトの自己家畜化は、ふつう、文明化が進んだ現代社会の人々にみられる現象といわれる 選択結婚についての報告は少ないが、ポーランドの田舎でも、身体尺度や反応時間について夫婦間の相関を求めると、一代前の夫婦間の相関よりも高くなっているという
家畜化は、近縁の、あるいはある形質について似通った動物をかけあわせることによって促進される
同様にヒトの自己家畜化は、究極のところ、似合いの、あるいは好みの配偶者を自ら選抜して、よりよき子孫を期待するということだから、その兆しが猿人のときからまったくなかったということはないだろう
この自己家畜化ということに限らず、ヒトがサルと違う本質的な点はすべて、ヒトの出現の頃から、すでに萌芽を除かせていたのではなかろうか
これらの特性は、持続的な直立二足歩行を獲得した後、二次的に派生したという学者が多い
しかし果たしてそうだろうか
1920年頃からの相次ぐ南・東アフリカにおける猿人化石の発見により、人類の起源は一挙に数百万年前に遡ることになった
持続的な直立二足歩行と手の自由な駆使という能力を持っていた猿人は、はたして二次的道具をおよそ300万年前の遠古のときから使っていたことが判明してきた 火の使用もまた、およそ50万年前の北京原人までしかわかっていなかったが、J・ゴーレット博士らのケニアのチョソワンジャ遺跡の研究により、約140万年前に遡ることになり、猿人が火を使用したという可能性が出てきている 大島清.icon
猿人が火を使っていたかもしれないということは、遠古のヒトが文化をもっていたということだろうか 近藤四郎.icon
最古のヒトである猿人は、文化を持っていたといってよいと思う
文化とは、よりよい生活をするために勝ち取っった生活技術が、次代へ集団として社会的に継承されるものと定義すると、猿人の生活遺跡であるタンザニアのオルドヴァイ遺跡は、文化の継承を物語っていると思われる オルドヴァイの最下層(第1層)は約175万年前の地層であり、最上層の第4層は約40万年前に遡る
そして各層から出土する石器は、最下層から上層へと見事な技法の継承を示している これらの類型化された石器は、組織化された労働に裏打ちされていたことを物語っている
そして、石器製作の手法を世代を越えて次々に集団として継承させたものは何だったのか
この技法の伝承には、ただ見習う、見て覚えるということだけでなく、言語の萌芽的なものによるコミュニケーションがあったと考えたい
つまり、サル類と違ってヒトが持っている特性、たとえば労働、家族、言語などは、それらの萌芽的な形であるにせよ、それらはヒト科の成立すなわち猿人の出現とともにあるとみるべきではなかろうか
サルと本質的に違って現世のヒトが持っている特性は、ヒトの出現のときから少なくとも萌芽を見せていなければ、ヒト科は成立しなかったと思うから
大島清.icon
そろそろ、人間の家族の成立の問題に入っていきたいが、その前にもう一度、家畜動物のいわば人工的な性と異なる野生のサルの性を検討しておきたい
野生のサルの本来の性
この性の休止期は、たとえばチンパンジーでは3年から4年におよぶといわれ、これはポピュレーションの調節に大きく役立っている 雄が雌たちの抱いている子どもをすべて殺すと、子を失った雌はただちに発情する 雄がこの行動によって雌に性の休止期を破棄させることは、究極のところポピュレーションの調節ひいては種の維持に役立っていると思われる
二つの異なった性の間に、その存在が生み出されるものが性愛だとすると、これはどの動物の段階からあるのだろうか 霊長類以下の動物には見られないし、霊長類でもサル類には交尾関係をもつ両性間にすら愛情は認められないといってよい 性愛は人間だけが持っているものであり、これまた人間だけがもっている家族を構成する基本になっているといえよう
人間では一定のカップルにおいて性愛がいつまでも続くように聞こえるかもしれない
しかし、人間の性をコントロールしているのは脳であり、その機能には性の促通と抑制がある このように人間では、個体の中に性の衝動に思うままに走らせない抑制機構があるだけでなく、集団レベルでも道徳あるいは社会習慣や社会組織に組込まれた性の抑制機構がある 近藤四郎.icon
生態学者の観察によれば、サル類においても、インセストの回避は原則として成立しているという
これはインセストによって子どもにおこる生物的障害を避け、そしてサル類の種の維持に重要な役割を果たしていることは言うまでもない
しかし、性衝動の抑圧が、生物としての機能としても社会規範としても人間よりも弱いはずのサル類の集団において、なぜインセストの回避が原則として保持されているのだろうか
サルはどのようにして血縁の遠い近いを認知しているのだろうか 大島清.icon
サルにおけるインセストの回避の方法は種によって様々
例えばニホンザルでは、オスザルが成長すると群れを離れるのも、その一つの仕方 またニホンザルの母-子には、非交尾期において毛づくろいに代表されるスキンシップがよく認められ、このような親和関係にあったサル同士は、交尾期が到来しても交尾関係に普通入らない リーダーが交代したのち、もとのボスがセカンド・オスとなって、群れの雌との交尾を抑制するのも、成熟した自分の娘との交尾を回避することにも役立っていると思われる ニホンザルでは、父-子の関係の認識はないが、母-子の認識は一生続くと言われる
そしてこの血縁の認識は、胎内にあるときから行われている公算が強い
出産後5分以内に引き離された子ザルが、母ザルを認知したという実験もある
子宮内の胎児が母親を認知できるのは音を介してしかできないから、子ザルによる母親の認知に重要な感覚は聴覚ということができる これはサルもヒトも同じ
サルにおいても、生後は主にスキンシップによる親和行動があるし、視覚、嗅覚もはたらくので、五感すべてが血縁関係の認知に関与すると思われる 最近では、血縁の認知が遺伝的な要因によってなされているのではないかという仮説が出されているが、実証はまだされていない
近藤四郎.icon
サルの社会では、五感のすべてを使って血縁を認知してインセストの回避を行っているということはよく理解できる
ところで人間の場合、インセスト・タブーという性の社会的規範は、一見したところ性の抑制にみえるが、人間が社会を営む上で基本的に重要なことと思われる
そしてインセスト・タブーは、人間の社会の基本単位である家族を構成する重要な条件となっている
現在の未開社会の人々であっても多くは、自己の属するコミュニティと異なるコミュニティに配偶者を求めることが知られている 彼らは、内婚による生物学的弊害を知らないのだろうが、一般に他のコミュニティに配偶関係を持つ
mtane0412.icon 経験的に知っているのでは…?
今西錦司が家族の成立に関する前提条件として、インセスト・タブーが存在すること、近隣にもコミュニティが存在すること、外婚制が認められること、配偶者間に性的分業が見られることを挙げたのは至当な指摘 そして家族がいつの時代からあるのかということは、人類学の難問の一つだが、猿人の段階で家族があったかどうかということをきめるためには、この4つの前提条件の一つずつが成立するかどうかを検討すればよい
これまで述べてきたように、4条件の成立を猿人の時代において妨げるものはないと思われる
サル類においてもインセストは原則的には起こらない
したがって、近隣にコミュニティがあれば、当然、外婚制がとられただろう
異性を求めて長い道のりを歩いていく能力は、猿人の足骨から証明されている(近藤, 1979) また、配偶者間の性的分業はすでに述べたように食の分配を促す
それは配偶者間にとどまることなく、狩りの獲物が豊かなときなど、コミュニティ全員に対して行われただろう
このことが仲間意識を昂揚させ、ヒトが他の人々のためにも尽くすという、いわゆる利他行動に移行することにも通じたであろう これはサル類には原則として食の分配が認められず、物乞い行動を受けて食を与えるのはチンパンジーぐらいと言われていることを考えれば、容易に理解できる 家族は性的再生産および経済的な単位であり、その成立は人間社会の進化に計り知れない加速を与えたものと考えられる
2. 性の解放
大島清.icon
19世紀後半は、いわゆるビクトリア朝の性の暗黒時代といわれたが、20世紀初頭から世界の多くの先進国においては、ようやく性の解放が叫ばれ、これを性革命という人もいる 性革命の先進国と言われるデンマークですら、ビクトリア時代には人口の増えすぎから晩婚が奨励された 禁欲を最高の善とするが、それだけでは男女間に不品行が起こるので一般人の結婚は否定しなかった わが国においても戦前の若人の愛読書であった倉田百三の『愛と認識との出発』(1921)は愛があっても肉交してはいけないと説いている 性革命という言葉は、1930年にオーストリアの精神分析医W・ライヒによって、はじめてその著書の表題に使われている そして、思春期の青少年に性交の機会を補償すべきだと主張した
戦後わが国においても、性は閨房という密室から出て、街頭に躍り出ているようにみえる
これは性教育による性知識の普及、避妊剤の入手、堕胎の実施が容易になったことなどが関係しているであろう
このような性風俗は、人間の自由を求めての、あるいは人間性の復権につながる当然の声の現れとも言えよう
しかし一方では、受験生にみられる母子相姦という異常な性行動まで出現するようになってきている
mtane0412.icon 80年代は受験戦争が母親の近親相姦を促進するという言説がかなり流行っていたようだ
このようなわが国性の趨勢を、どのようにみるか、性科学との関連においても意見を伺いたい
近藤四郎.icon
このごろ、受験生のあいだで母あるいは姉とのあいだに相姦が行われ、インセスト・タブーすら守れていないという話は、驚嘆にたえない
これは受験勉強を強いられるという、一種の閉鎖環境の中で起こる異常な出来事であろう
不思議に思うのは、この受験生は性教育を受けているはずだのに、ということである 性教育は、今世紀の初頭から始まった性科学で得られた知見を、一般にも普及させようとするもの
そして高等動物の生の基本として、雌雄それぞれの交合という性行動は好ましい相手を選択するという個体性をもって行われ、だからこそ、その結果としての生殖は種の維持につながるものであることを教えている
そして、性教育の正しい理解に伴っておこった効用としては、人間の女性が男性と対等な位置にあることを男女ともに自覚するようになったことが挙げられよう
ところで、この受験生は性教育をうけたとしても、実際の性の知識だけを吸収しようとしていたにすぎないのではないか
したがってまた、性は家族の成立、存続、ひいては人間社会の進展に関わっているということを、よく理解していないために、一時的な性衝動に負けたのではなかろうか
このインセストは母親側からの行動というケースもあるという
これが事実とすれば驚くべきことで、その原因は、父親が働いてばかりいて家庭における父親のあり方に配慮が欠けていたとか、父親を喪失していたことにあるのではなかろうか
現代人の性について憂慮すべきところは、このような跛行的に、あるいは突発的に起こる性行動に、その一端をのぞかせている
現代における性の特徴はなんだろうか
第一に、性行為は本来、個人と個人の間に芽生える愛情をもとにして成り立つものであるのに、いわゆる現代における性の解放は性情報の氾濫という形を招き、その情報は性の快楽を主として訴えるから、個人の性衝動をいやが上にもかきたてる
不思議にも、この性情報には性の抑制に関するものが極めて少ない
このような情報に、多少とも関連を持って揺り動かされる性行動はきわめて自由奔放に走りがちで、ついには、人間が生きてゆく上の倫理の基本である、インセストまで侵犯するということになるのであろう
第二に現代の性の特徴として、性と生殖の分離を挙げたい
たびたびこれまで触れてきたように、性は本来、性交合の結果としての生殖、再生産を招来する
しかし、性知識の普及、とくに避妊の手段の発達は本来、不離不即であるはずの性と生殖を分断する方向へいっている
いうまでもなく、避妊は最近の人口爆発を抑制するための全人類のやむを得ざる措置である
この避妊の色々な方法のうち、妊娠中絶は生命の尊厳という観点から容認されるべきではない
一人あるいは二人の子どもを設けた上での、中絶でない避妊が許されるにすぎない
第三に、性知識の普及は、性と生殖を分離するとともに、いまや性を遊び化しているようにみえる
働くというヒトの価値に通じるものがあって、それとの対比において遊びというものがある
遊びは没利害的、非生産性のものといわれるが、その故にこそ労働と交代的に遊びは生きる
遊びは本来ゆとりを意味するものと思われる
いま、若人に横行している性の遊びは、避妊の知識を援用するから、たしかに非生産的なものであろう
しかしこの性は本来、生殖をともなうという本質を分断している
また、性は自己と異性の他者との間の愛情にもとづく秘め事であるのに、折に触れて変わる相手の性は一人の人間の性としてではく、マスメディアのなかの一つの性と認識されているにすぎない
したがって、性の遊び化は、遊びは遊びを生んでとどまるところを知らない
遊びという非生産的なものから、はたらくとか考えるという生産的な方向への転機を逸するのは、いわゆる遊びへの恥溺にしかすぎない
最近の遊びの特色は、自己の孤立化にあるだろう
仲間との遊びは衰退してしまってきている
これは子どもについてもいえることで、テレビその他マスメディアを対象として一人で遊んでいる
したがって、仲間のなかでの遊びのときのように、自分の知力・体力を他の仲間との対比においておのずから会得することができない
最近の若人の性の遊びが、愛情とはおかまいなしに通行するかぎり自己の孤立化を深めるだけであろう
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現代の性の氾濫とでもいうべき風潮は、避妊の用具や薬剤の使用、人工妊娠中絶などに安易に走ることとも大いに関連があると思われる
これらは確かに人口爆発の抑止に効果はあったが、他方、後遺症を残し、たびたび母体の生命をも危うくした
これらの問題を生命の尊厳という立場から考えてみたい
そしてエストロゲンには卵巣がんをはじめとする発がん性のあることはもはや定説となっている ピルの出始めのころ、つまり1960年ごろには、ピルには男性ホルモンも含まれていたので、女児に性分化異常が頻発した 最近ではエストロゲンは、血液凝固機転にも一役買っているらしいと言われている
人工妊娠中絶は、胎児という小さいながらも生命をもっているものを抹殺することだから、生命の尊厳に直接触れる問題である 貧しき人々の母と呼ばれるマザー・テレサは1980年に来日の折、早々に「もし、私が胎内にいるときに抹殺されていたら、いま、みなさんとお会いできなかったでしょう」と人工妊娠中絶に反対の意思を表明した また、彼女の「何不自由なく生きているように思えるけど、ひどい飢えがあるかもしれない、誰からも必要とされていないというおそれ、誰からも愛されていないというひどい貧しさ」という言葉は、生命の尊厳がお互いに等しく持っている生命を愛しむことにあることを言い当てている遠モアwれる
避妊剤や妊娠中絶の普及は、現代人の性を性的快楽に安易に走らせると同時に、生命の軽視というもっとも憂慮すべき傾向を生み出したと思われる
人工妊娠中絶は一種の殺人だから、出産に母体が堪えられないとか、胎児に先天性異常がありその生長が保証できないなど、よほどの理由がある場合以外には、絶対に容認できないと考える
しかし、胎児に異常があると診断された場合でも、両親が出産したいと言えば、妊娠中絶を行うこと無く、小さな生命の誕生を迎えなければならないことは言うまでもない
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本来、不即不離であるはずの性と生殖を分断したところに、現代の性の歪みが始まっている
これを本来の性の姿に戻すためには、なによりも生命の尊厳性ということを考えねばならないと思う
しかし最近における分子遺伝学の進展が明らかにしたところでは、生物はすべて生命を持っており、その生命現象は基本的にDNA(デオキシリボ核酸)のという化学物質から成る遺伝子によって規定されているということ したがって、微生物の生命現象もヒトの生命現象も物質レベルからみれば根本的には変わらないということ
それではなぜ人間の生命だけが尊厳だといわれるのだろうか
ヒトの個体は、それぞれに異なった遺伝子型をもっている 人類全体についてみれば、その遺伝子型の変異の幅は非常に広い
この多型性に富む遺伝子は、有性生殖の結果であり、また長大な時空にわたる進化の過程のなかで突然変異をうけ、そして生存に堪えうる、あるいは環境に有利な遺伝子が生殖を通じて選択され、今日まで代々、子孫に伝えられてきたもの この突然変異は、生物界において任意におこるものであって、価値ある方向へと生起しているわけではない
したがって、多型性の遺伝子にさらに変異を求め、それもよき遺伝子の誕生を期待して、よき配偶者の選択をするという人間の行動が価値観をもって行われることに生命の尊厳の基盤があると考える
この配偶者の選択は、分子遺伝学が進歩していると言っても、なかなかむつかしく、よりよき遺伝子をもつ子どもをもうけたいという願望通りになるとは限らない
よりよき子どもをつくるために、愛情をもって配偶者を選び、そして性行動を営み、そして愛の結実を得る、性と生殖が愛という一貫性をもって行われるからこそ、人間の生命は尊いのではなかろうか
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遺伝子の多型性をさらに増やすということは、動植物をふくめて複雑多岐にわたり、そして時々刻々と変容する環境に対処するもっとも賢明な方法だと思う
こういう行動をするからこそ、性行動の結実としての人間の生命は尊重すべきだということは当然の結論であろう
自然の摂理である生殖によらないで、他の動物の遺伝的素質だけを入れ込んで、他の動物とそっくりのコピーをつくること
例えば、マウスの受精卵の核だけを取り去り、他のマウスの体細胞の核をそこに移植し、卵をマウスの子宮内に入れてやると、対細胞核の遺伝情報によって分裂・発育する 自然界は無性生殖ならいざしらず有性生殖にみられるように、同じ生物のコピー(クローン生物)をつくることを禁じている 自然条件のもとでは存在しないような生物を人工的につくりあげることは、抗体や治療薬の製造、あるいは家畜に応用されることはあっても、「クローン人間」を作ろうとすることはSFの世界だけの話であってほしい 人間の生命の尊厳に抵触し逆行している
3. 老人の生と性
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男性の平均寿命74歳、女性は78歳と、世界の長寿国のトップクラスに躍り出た日本だが、高齢者層の広がりとともに、老人の性は、もはや放置できない問題となっている
というのは、老人になっても性的能力は衰えないから、一人暮らしの老人や老人ホームなどで、自分の性の処理のうえでトラブルが起こってきているから
しかも事故死や自殺も、男性に比べて低いということも関係しているだろう
長寿になった今は、60歳以上の男性を熟年とも前立腺年齢とも呼ぶ 60歳代になると、良性にしろ悪性にしろ、ふつう前立腺は腫瘍性の変化を起こす
前立腺症になっても、早期に治療を行えば完治する
女性の閉経年齢をみても、1900年には45歳であったが、1970年には48歳と3年ほど延びている 初潮年齢も3年ほど早くなっているので、女性の生殖可能期間、つまり卵巣がその名の通りの機能を果たす期間は、寿命の延長には比例しないが6年ほど延びてきている これは生殖可能年齢の話であって、女性としての性的活動期間は別の問題であるが、その性的活動の年齢範囲も当然、延長化していることは疑えないこと
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日本人の平均寿命の時代的推移は小林和正が骨資料から判定したところでは、縄文時代人は約31歳、室町時代になって約36歳で、ほとんど性差がないことが注目される 寿命の飛躍的延長は周知の通り最近の現象であって、1938年においても日本人の平均寿命は男46歳、女50歳であった
近時の寿命延長の原因は、各地方における遺伝的隔離が解けたこと、栄養の改善、医療制度の充実などに負うところが大きい
このように寿命の延長にしたがって、老人の性的活動が盛んになるということは、性は生きている証なのだから当然のこと
老人の性の現状に対して、儒学的・養生訓的に、老人の性は、はしたない、きたない、あさまし、などといって、我々が対処するのは誤りであろう
ただ、寿命の延長のわりには、生殖年齢期間が延びていないことに注意する必要があると思う
生殖年齢期間は、種によってほぼ決まっている
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からだの寿命が延びても、老齢化した生殖細胞は、ときとして染色体異常のような胎児奇形を派生させる 卵巣の寿命が他の器官の寿命に比べて桁外れの延長を見せないのも、胎児の初期発生の異常を防御させるための天の配剤というべきかもしれない つまり、からだの寿命と生殖期間の延長は比例しないが、性生活とだけは比例しているということ
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一般に動物は生殖年齢をすぎると死ぬ
つまり新しい個体の誕生と古い個体の死によって、動物の社会ではたくみに個体維持と種族維持が両立している
この原則から、人間は最近はずれてきているということになる
それではヒトという種に属する今の老人の生殖年齢をすぎてまでの生は、どのような意味があるのだろうか
オトナになるまでの生長期間の延長はヒトが出現する時に勝ち取ったヒトという種の特性
ヒトの生長期間が他の動物よりも長いということは、オトナの社会に入る前の学習を含む準備期間が十分にあるということを意味する
この成長期間の延長化は猿人の出現からこのかた、さほど延びてきているとは思われない
最近の寿命の延長は、生長期間プラス青年期・壮年期のあとの老齢期間が長くなってきていることに特徴がある この老齢期間に、老人は何をすべきなのか
その性的活動が盛んであるということは生の基盤なのだから、生殖年齢を過ぎていても老人の存在価値は何かあるはずである
老人は体力・知力が残っているあんらば、ヒトの特性としてはたらけばよい、思考すればよい
それもかなわないならば、長寿によって三代にもわたるようになった家族の維持に関して、自己の豊富な社会経験にもとづいて発言したら良よい
ヒトだけが持っている文化の継承・発達に家族制度の果たしてきた役割はきわめて大きい
死は生きていないということであり、生との絶縁である したがって生から死へ向かう覚悟はなかなかにむつかしい
からだのすべての器官が老化して老人がぼけてくるのは生から死へ自然に向かうために天が与える配剤であろう
したがって、ぼけていない、元気な老人の生には、ヒトの一因としての老人の特性がまだ何か隠されていることにわれわれは心すべきではなかろうか